ゴルフのはじまり

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ゴルフ

ゴルフ は15世紀スコットランド沿岸で楽しまれていたゲームが発祥です。ゴルファーは砂丘で棒やクラブを使いボールの代わりに小石を打っていました。ゴルフに関する最初の記述は、1457年スコットランドの王ジェームズ二世が兵隊のアーチェリー練習の邪魔になるとい理由で、ゴルフを禁止したことです。この記述からこの時代には、ゴルフがスコットランドの娯楽であったことがわかるでしょう。ありがたいことに1502年にはイギリスと恒久和平が成立し、後ろめたさなしにゴルフをプレーできるようになります。1603年、ジェームズ6世がジェームズ1世としてイギリスの王座に就いた時、彼は王室をロンドンに移し、彼と王室の人々は王宮やブラックヒースコモンの中でゴルフを楽しみます。しかしながらゴルフが一般人に楽しまれるようになるのは、この300年後でした。単純に、ゴルフをするのに必要なのはクラブ、ボール、短い芝の広い敷地の3つです。

ゴルフボール

ゴルファーは小石を打つことに飽き、他のものを試すようになります。初代のゴルフボールはただの木製の球で遠くには飛びませんでした。1500年代までに『フェザリーズ』が使用されるようになります。これは3枚の皮地を縫って濡れた羽を詰めたものです。羽が乾くとボールは硬くなり、弾力のある硬さはまるでテニスボールのようです。このボールは空気力学の特質があり、昔の木のボールに比べるとはるか遠くに飛びました。このボールの欠点は、職人が1日に3個しか作れないことと、とても高価であったことです。(大体一個の値段が今日の50ポンドに相当します。) これゆえゴルフはお金持ちの娯楽となり、一部の人だけができるスポーツとなっていくのです。1850年セントアンドリュースの牧師は、インドからガタパーチャと呼ばれる自然のゴムの木で作られた彫像を受け取ります。この素材は沸騰しているお湯の中に入れると柔らかく曲げやすいですが、常温だと固く抵抗力がありました。この牧師は、アダム パターソン牧師で、安いゴルフボールを作る可能性を見出します。そして1860年までには『ガタパーチャ』ボールは、羽のボールを時代遅れの物にします。このボールの最高飛距離は225ヤードで、現代のボールによく似たものでした。次の大躍進は1902年アメリカ人エンジニアのコバーン ハスケルが発明したボールで、硬いコアにゴムバンドを巻きつけ、薄いガタパーチャで覆われていました。この3部分からなるボールは、硬い『ガッティー』よりさらに遠くまで飛び、1905年には硬いガッティーは過去の物となります。このボールは430ヤード近くまで飛んだそうです。この3ピースからなるボールは20世紀のほとんどを制し、ボール製造者が高品質の2ピースボールと、皮肉にも1ピースボールを作ったのは比較的最近のことです。初期のゴルフボールは表面がツルツルでした。プレーヤーたちはボールが古く傷がつくほど遠くに飛ぶことに気が付き始めます。その後、プレーヤー達は新しいボールにわざとくぼみをつけるようになりました。1905年、ゴルフボール製作者ウィリアム テイラーは、ハスケルボールを使って初めてくぼみパターンのあるボールを製造しました。これが現代のゴルフボールです。

ゴルフクラブ (ウッド)

チューダー家とスチュアート家の時代、木を形作り、伸縮性できる多くの弓職人がいました。 同様に、金属性の物を作る多くの鍛冶屋と甲冑師もいました。時間とお金のある貴族紳士たちは、彼らの技を見せびらかす方法を探していました。彼らは、小さなボールをとても小さい穴に入れるため、難しい道具を使ってボールを何百ヤードも飛ばすという作業に惹かれました。現存の一番古いクラブは、1600年代後半の物と思われます。『アイアン』は粗製の少しロフトがついた重いヘッドで、難しいラフから打つのに使われたようでした。『ウッド』は、長細く彫られたヘッドで、ヘッドの中には鉛の重りが入っていました。ソールの先端には、ウッドを保護するために動物の角が埋め込まれていました。アイアンのシャフトは、平均的なほうきの柄の直径と同じくらいでした。一方で、ウッドのシャフトはアイアンより長く、より撓りました。クラブのデザインは、ウッドは長い距離用で、アイアンは短いショットだけという概念を固めました。

木製クラブのデザインは、1800年代半ばまでに少し変化します。1880年から1900年には、ヘッドは革新的に短くより球状になりました。写真にあるように、『ロングノーズ』から『バルガー』と呼ばれるようになります。

ゴルフクラブ (アイアン)

19世紀後半、アイアンのヘッドはより精製され軽くなりました。ボールの耐久性が増し、バックスピンがより可能になると、アイアンはアプローチ用として広く使われるようになりました。これに加え、アイアンヘッドのクラブを使うのに慣れたゴルファーが増え、木製のヘッドのパターは人気がなくなっていきました。

1920年まで、通常のプレーセットは6~7本のクラブでした。典型的なヒッコリーセットの写真をご覧ください。1920年代後半になり、高品質のメタルシャフトを製造することが技術的に可能となり、製造業者は絶好の機会を目にします。上手いマーケティングでメタルシャフトはヒッコリーシャフトより断然優れているとゴルファー達に納得させます。(厳密に言えば本当ではありません!) しかしながら、メタルシャフトはフレックスに関して基準化されたため、製造業者は半分と四分の三のショットが難しくなったと述べました。もちろん彼らは、そのための解決案を提案します。みなさんのゴルフバッグに、より多くの異なるロフトのクラブを入れることです!この結果5年程で、ワンセットの平均的なクラブ本数は、6本から12本になり、製造業者はより多くの利益を得ました。1930年代、ゴルファーの中には20本のクラブをバッグに入れて運ぶようになり、運営委員会は、措置を取る必要があると気が付きました。規定委員会は最高14本までのクラブを入れることができると決定しました。この数字は提案された7~21本の真ん中ということで決められました。

1880年代になりゴルフバックが使われるようになります。『ビーストオブバーデン-』(日本語に訳すと「荷物運搬用の動物」で荷物持ちという意味) はゴルファーの荷物を運ぶキャディーの古いニックネームです。最初の電動ゴルフカートは1962年頃メルリン L. ハルバーソンによって発明されました。

ゴルフコース

19世紀後半になるまで、機械仕掛けの芝刈り機はなく、自然に芝が短く生えている土地はあまりありませんでした。このような土地は、海辺の砂地と内陸をつなぐ至る所にありました。これゆえリンクスという用語は、ゴルフができる場所の同意語になり、グリーンという用語はホールの周りのエリアだけでなくゴルフコース全体に当てはまります。プレーヤーが特定の場所からティーオフし始めたのは1875年からで、それ以前は、プレーヤーは前のホールからクラブ2本分の距離内でティーオフしなければならないというルールが規定されていました。ゴルフが始まった当初の主な競技方法は、マッチプレーでした。しかしゴルファーの中には、一人でコースを何打でまわるかという、明らかな賭けを行う者もいました。これはストロークプレーに発展します。ついでに言うと、コースにはホールの基準数がなく、1764年にセントアンドリュースのオールドコースが22ホールから18ホールに減らし、これがゴルフ場の1ラウンドの標準となりました。

ゴルフティー

『ティー』という言葉は元々プレーが始まる所を意味する言葉です。1889年スコットランドのゴルファー、ウィリアム ブロックサムとアーサー ダグラスによって携帯用ゴルフティーの特許が取られました。このゴルフティーはゴム製で、ボールを載せるため垂直に3本のゴム製の尖ったものが付いていました。しかし現代の地面に突き刺すゴルフティーと違い地面に置くタイプのものでした。1892年、パーシー エリスは『パーフェクタム』と呼ばれる地面に突き刺すタイプのティーの特許をイギリスで取得しました。これはゴム製でメタルスパイクが付いていました。1897年の『ヴィクター』ティーもよく似ていますが、ボールを安定良く載せておけるようにカップ型にしました。『ヴィクター』はスコットランド人 P M マシューズの特許です。

ゴルフティーのアメリカ特許は、スコットランド人デビッド ダルジエルによって1895年初めて取られました。この他、1895年アメリカ人 プロスペル セナットそして1899年にはジョージ グラントが改良されたティーの特許を取得しました。

近年世界中で、「古典的な方法」でゴルフが楽しまれつつあります。アンティーククラブはコレクターアイテムとして評価されますが、一度は使用された物でもあります。多くの社交会では伝統的な方法でプレーを楽しむ熱心なメンバーの存在があり、ヴィンテージゴルフ衣装に身を包むほど気合いの入った人たちもいます。

世界中で定期的にヒッコリーゴルフ競技も開かれています。

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